銀の日常

僕の日常とこれからの物語

2ヶ月自己分析を続けて文字にしたら12976文字。

周りに流され、普通をキライ、普通になりきれないぎんのプロフィール

始めまして!駆け出しブロガーのぎんちゃんです!!


僕は現在、ブログやSNSなど、ネット上での執筆活動・情報発信をしております。


もともと何の文章スキルも才能も持たない普通のサラリーマンでしたが、一冊の本と出逢い。この混沌とした情報発信の世界へ飛び込みました。


この記事を書くに至り、過去の自分を今一度振り返りました。すんごい振り返りました。めちゃめちゃ振り返りました。


僕のコンプレックス、過去の挫折、ギャンブル依存の時期

やりたい事を見つけ無我夢中で突っ走っていた時期

家族ができ、社会や仕事と向き合い始めた時期


様々な時期を迎えながらも、今現在まわりの人に支えられながらなんとか生きのびています。


ここでは、僕の生い立ちや今までの活動を振り返り


僕がどんな信念をもって情報発信をしてゆくのか、一体なにを目指しているのを綴ってゆきます!


とても長いので、お時間のある方
気になる方は読み進めていってください。



今現在SNSで自分の思いを赤裸々に表現しているんですが


「もともとはっきりと物事を言える人だったんですか?」


と思われるかもしれませんが、全くそんなことはありませんでした。


むしろ真逆の性格で、人見知りで周りの目を気にしては、流されるように生きてきました。


僕は、警察官の父と専業主婦の母の家庭のもとで育ちました。


愛知県生まれ岐阜県育ち

至って普通の家庭

強いてゆうのなら父が頭の硬いお人です。硬いんですけど、過干渉ではなく。

自由気ままにさせてもらいました。


小さい時に、仕事で忙しい父とドラクエ3を一緒にやった事がとても楽しかった記憶があります。

そんな父から

「お前の人生お前の好きにしろ」

と言われた時のことを今でも良く覚えています。


母は、専業主婦。綺麗好きでとにかく多趣味。裁縫、デッサン、インテリア、読書。

趣味の方向性デザインの感覚は母に似ていると思います。


幼き頃

振り返ると僕の性格の原点は
小学校から形成されていたのかなと思います。


家庭の方針なのか?周りに流された影響なのか?幼い頃から、ピアノ、バイオリン、英会話、野球、卓球、水泳、テニス、バスケと色々やってました。


その中から、何か結果を残したのか言うと、残念ながらどれもこれという実績が残らず


途中で投げ出し、どれも続かない


今思えば

「ただやっていた、やらされてた感が凄かったのかなと思います。」


小学生の頃、自分より優れた才能を持っている子がいると


「いいなぁ なんでこの子だけ羨ましいな」

「自分はなんでここにいるんかな」


なんて劣等感を感じ辞めちゃうんですよね。ずーとその気持ちが残っていて引っかかってしまう。


努力が好きではなかったんですね。

自分が頑張っても、あいつらには敵わないと決めつけてから、努力を怠るようになってしまい


大人たちはやる気を出させようと

「お前はやれば出来る」

と言ってくるんですけど


「なんで、やりたくないことやらなきゃいけないんだ?」

と反発して結局のところ続かない


すごくめんどくさがり屋さんで


口癖が「つまらない」「めんどくさい」
毎日言ってました。


振り返ると自分に劣等感を抱きどこかしらけてしまっていたのかなと

そんな生活の中でも

好きな場所がありました。


それが、今は亡き祖父の家です。

山と川に囲まれポツンと一軒家、幼い頃から山に登ったり、川で泳いだり


夜になると皆で蛍を見に探検しに行ったり

友達を誘って、祖父の家へお泊まりをした時はすごく楽しかった記憶があります。


山や川で様々な発見をして、

「ここが僕の遊び場だぞー!!」

っと言わんばかりに友達と遊んでました。


もちろん友達も楽しんでくれ、僕自身もとても良い思い出になってます。


当時から自然と遊ぶ事が大好きでした。


今思うと、自ら遊びを見つけ出し仲間と遊ぶ原点になっているのかもしれません


そんな、幼き頃の性格です。

中学時代。

中学生になり僕はさらにしらけてゆきました


家庭環境に戻ると、特にやりたいこともなく。


口癖の(つまらない)は継続


僕の世界からみんなの世界へ変わってゆく


学校という組織の中で、人それぞれ個性が目立つようになり、それに伴って僕自身の個性を消すようになりました。


学校という世界の中での評価が運動神経が良いやら勉強ができるやら、容姿が優れてるやら、面白い奴だとか。


ぼくが昔から周りと比べてしまうタイプでしたので、僕よりも優れた子がいるとすぐに諦める。


周りから見たら普通の子


運動ができるわけでもなく、勉強が出来るわけでもなく、カッコよくもなく、面白いやつでもない


至って普通


成績は、体育が4であとはオール3


それでも


普通が嫌でした。


「特別じゃなきゃ嫌だ!」


そんなこと思っていても

努力もしないし能力もないしめんどくさいし

そんな僕はとんでもない病気にかかっていました


そう


「厨二病です」


いろんな思いがある中みんなの世界の一部になろうと必死で、なんだかんだ続いたバスケが僕の居場所でした。

これも、祖父の家へ一緒に行った仲間がバスケやっていたからバスケを続けたんですけど

そんなバスケも、周りについていけなくなり
中学2年生で辞めました。

先輩からは、
「おっ!!サボり魔山田」←苗字が山田
と言われてました。

授業が終わると、ほとんどの生徒は部活へ行く

当時中学生は、部活動に入り三年生まで続ける事が当たり前でした

部活動やってない子は、悪さをする子が多いイメージでしたけど

僕には、そんな悪いことをするわけにもいかず
(父が警察官ですからね。)

だから僕にとって学校は、クソつまらなかった
刑務所のようなものでした。

中学時代一大イベントの修学旅行
のバスの帰り。
(修学旅行は、あまり記憶がない…)

ふと、思います。

「モテたい…」

「めっちゃモテたい…」

なぜかそう思います。笑

(中学生男子の健全な想いですね。)

モテるにはどうすればいいのか?

モテる??

モテてるやつ??

ジャニーズだ!!

ジャニーズと言えば??

バク転だ!!

その日から変わった。

という事で、修学旅行の思い出など忘れ僕はバク転がやりたくてやりたくて、家に帰り、PCを開きバク転のやり方をひたすら調べました。

(当時は、今みたいにYouTubeですぐに調べれば分かりやすく教えてくれるわけでもなく、周りにバク転できる人もおらず…)

動画があれば、それをデジカメで撮って、コマ送りにして分析してました。

(僕の中学では、携帯を中学生が持ってる事が珍しかった。むしろまだそんなに普及してなかった)

帰宅部に成り下がり居場所を失った僕は、学校が終わるとすぐに家に帰り、布団を敷き

その上で、必死に練習

そしたら母に

「こんなところでやらんといて!!」

と怒られます

そりゃそうですよね…

渋々練習を諦める

だけど、モテたい!!

他に良い練習場所はないのかな??

「そうだ!中学校の格技室にマットがある!!」

クソつまらなかった学校に行く目的が僕に生まれました。

休み時間、一人で、格技室に忍び込み練習

掃除時間をさぼり、一人で練習

剣道部が練習してる最中に、一人で練習

隣の体育館では、バスケ部が黙々と練習をしている中少し気まずかったけど、バク転の練習

学校に行く目的は、勉強ではなく格技室のマットを使うために変わり

帰宅部になった僕はその分自由に時間を過ごす

すごく楽しかった。

1人でやっていると、興味を持った仲間が増え

1人でやっていたはずが、2人3人と増える

帰宅部だった僕が
中学校という組織の中に僕の新しい居場所を作った。

スゴく楽しかった。

それからモテたのかというと。

残念ながら

バク転が出来る=モテる

という方程式はなかった。

もちろんバク転はできるようになり

動画 31歳のお父さんが3歳の娘の前で、久しぶりにバク転してみた。

そして

先生に勧められ、卒業式の日学級のみんなの前でバク転を披露した。

たかがバク転?
と思われるかもしれませんが、当時の僕にはそれをやり遂げる事が目的であり、皆とは違うことアピールしたかったのかなと思います。

その後

様々なバク転の動画を調べていくうちに、ブレイクダンスというダンスに遭遇。

自分の体を使いアクロバティックに表現する様は、スゴくカッコよく見えた

体に電流が走るような感覚で

「これだ!!」

動画


キットカワルダロウ
高校時代、人間関係

そもそも勉強が出来る子ではなかったので、入れる高校に進学

そこで現実を知る。

他校の生徒とケンカしてる輩、入学して数日経っていなくなる輩やらロッカーがボコボコだってり、どちらかというと普通より荒れてました。

僕は、その高校の中だと少し勉強ができた方なんで選抜クラスに入る。

クソつまらなかった。

自由気ままに、やりたい放題している他のクラスが羨ましかった。

(ケンカしたり、ロッカーをボコボコにしたいわけではない)

高校に行って
別に勉強したいわけではないし

そう

僕はただ

「モテたいだけなのだ」

高校行ったら、キット変わるだろう。
モテるだろう。

(不純な動機)

しかし
個性豊かすぎる生徒たちの前では、バク転ができる奴など気にも留めない。

需要がなさすぎるんだと気づく

高校時代需要があるのは、勉強できる奴、イケメン、美女、面白い奴と相場は決まっている。

そんな生活の中でも唯一の楽しみである
ブレイクダンスは、ひたすら続けていた。

ダンス=モテる

を、信じて

である。

高校一年生の時、必ず部活動に入らなきゃいけない謎のルールが僕の高校にはあった。

僕は、渋々バスケ部にはいる。
だけど僕は、バスケじゃなくダンスやりたい。

そんな事が伝わったのか

バスケ部の部長に呼び出され

「お前は、バスケやりたいのか?ダンスやりたいのか?」と聞かれ

僕は、即答

「ダンスです!!」

部長

「なら辞めろ!!」


「はい!!」

そして僕はまた帰宅部になり
自由の時間を手に入れた

授業が終わると、皆は部活へ行く
僕は、ラジカセを持って、体育館へ行く

音楽を流し、バスケ部が練習してることなど気にせず、体育館の舞台の上でダンスの練習をした。

だって、ダンスやりたいし
舞台上は、誰も使ってないからね

先輩たちも呆れたのか興味がないのか
あまり気にも留めなかった。

その後の高校生活はというと、僕の高校にはダンスやっている子がほぼおらず。

高校の授業が終わると、ラジカセを持ってダッシュで電車に乗り
(田舎の高校なんで一時間に2本しか電車が来ない)

文化センターに行く

なぜか??

そこに行くとダンスをやる仲間がいると聞いたからだ。

ダンスやるためにそこに集まってる人がいる
スゴく嬉しかった。

僕の居場所を見つけた!!

その後、ブレイクダンスのチームを作り
色んな大会に参加した。
地元の祭りにも参加した。

当時ブレイクダンスの登竜門と言われる
B-BOY商店街にも参加した。

当時の僕らのチームは、個性豊かだった

しまむらで買ったシャツに黒のスプレー缶でB-BOYと書いてある服を着ながら、ボロボロの原付でやってくる先輩

真冬にボロボロの原付でやってきて、原付から降りた途端に、ポケットから手袋を取り出し

一言

「今日は手が冷えるな。」

えっ
バカなの??

愛嬌のある猫みたいな先輩とか←海外へダンスを教えに行った

めちゃめちゃ声のでかい後輩とか←ブレイクダンスの世界大会へ行った。

なんか面白かった。

そんな仲間たちと
ジャッチ賞をチームで貰ったのはいい思い出である。(たしかB-BOY商店街vol15、end rollにカニさんクルーと書いてある←当時のチーム名、今思うとスゴくダサい…笑)

当時、唯一のダンス番組
少年チャンプルをかじるように見た
録画して、コマ送りして技の分析もした

ヘッドスピンやりたかったし、トーマス、ウィンドミル、Aトラックス、エアートラックスとやりたい技は沢山あった。

正直言って、僕はダンスが出来た部類ではない

それでも
雨の日も、真夏の日も、雪の日もダンスのことばかり考えてた

それが楽しかったし

何よりも目的があった

「モテたい」

ただそれである

そんな事を思いながら

高校3年の時

初めて彼女が出来た

僕の目的は達成した

そしたら自然とダンスの熱量が下がっていった

結論

彼女とも続かず、ダンスも辞めた

今思うと目的を達成して
燃え尽きたんだと思う

当時のダンスメンバーのうち

1人は海外へダンスを教え
1人は世界大会へ出場している

当時の僕とは違いダンスの熱量が違っていたのだろう

僕はというと、彼女出来たらそれでよかったのだった。

その後、高校3年の文化祭でブレイクダンスを披露した。

理由は、あまり覚えていないが今振り返るとバンド演奏の前座だったんだろうと思う

文化祭のオオトリといえば、バンドである。

めちゃめちゃ盛り上がっていた

高校最後の文化祭が終わり

高校生活が終わる

ダンスもやめた

これから何しよう…

周りに流され、ノリと勢いで東京へ。

大学、専門学生時代。

もちろん勉強は、出来なかった
正確にはやらなかった

だけども高校一年生の時の選抜クラスの成績のおかげで、愛知県の大学に推薦で入った。

大学生活は

ここから何かが変わるのかなと

ワクワクして

新しい出会いに

ドキドキもした

当時のぼくは、ダンスサークルではなく、バンドのサークルに入って、ドラムを叩いていた。
(文化祭の影響だろう)

もちろん学校の授業は、サボっていた

そんな生活をしていたら

気付けばサークルも辞めて

3ヶ月後

僕は大学を辞めた

理由は

「勉強する理由がわからないからである」

その後
バイトをしてお金を貯めて

東京へ行った

理由は簡単だ

「東京へ行けば何かが変わる!!」

である。

それでもそう簡単に東京へ行かせてくれたわけではない

母に
「大学をやめて東京へ??
しかも理由が明確ではなく??
バカなの??」と言われた

父に
「お前の人生お前の好きにしろ」
と言われた。

だから
僕は東京へ行く理由を探していた

そんな事を考えながら本屋に行き、テキトーに手に取った雑誌のお洒落なインテリアに惹かれた。

その時

「これだ!!」

とまた電流が流れた

「インテリアデザイナーに俺はなる!!」

その趣旨を両親に伝え。
バイトをしてお金を貯めて。

いくつか調べた中で
東京のデザイン学校に面接に行った

決断から行動までのスピードは早かった

今振り返ると、先のことなど何も考えてないのだろうと思う。

現在(イマ)やれる事をやってたんだと思う。

それでよかった
それでいいんだと
今も思う
考えて行動を止めるより
行動しながら考えればいい

その結果がどうであれ

その考えが当時から
あったのだと思う

幸せな奴だ。

勢いとノリで挑んだ面接は、集団面接だった。

結論から言おう

僕はなぜか合格した。

僕の面接のグループは、マジメそうな子達ばかりのイメージで、人それぞれ自分の思いを喋っていた。

志望理由 学校でやりたい事や 将来の夢

そして
僕の番が来た。
面接官
「志望理由は?」


「インテリアデザイナーになるためです。」

とかなんとかもっともらしい事を語り

面接官

「では、今あなたができる事を教えてください。」

「ヘッドスピンです!!」

面接官

「???」

僕は、持っていたニット帽を被り面接官の前で、ヘッドスピンをした。

今思うとバカだと思う。
当時も薄々感じていたけども

インテリアデザイナーと、ヘッドスピンは、どう考えても関係性がない。

面接官の意図は、インテリアデザイナーになるためにあなたが今までやっていた事、出来ることを教えて欲しかったのだと思う。


東京の生活は、刺激的すぎた。
何もかもあふれていた
あふれすぎていた

人もモノも

これもまた結論から言おう
挫折した、一言で言うと現実から逃げたのだ。

必死でついていこうと頑張った。
渋谷の道玄坂の居酒屋でバイトをして、学校の課題をこなし、朝起きてお弁当を作り

授業も、スゴく楽しかった
仲間も個性豊かでスゴく楽しかった

けど

なんか違う

そう僕は
気づいたらいけない事を
気づいてしまったのだ。

「僕は本当にインテリアデザイナーになりたいのか??」

とそんな事を思いながら

ノリと勢いで日々を暮らしていた。

当時上野動物園で、デッサンの授業があった。
今回の課題は、好きな動物を描きなさいと。

それを30人ほどいる。
インテリアデザイナーの卵の前で披露するのである。

言うまでもないが。
頭で回ることしかできない僕に、デッサンの能力があるはずもない。

(頭の回転は、良くないのにな。)

僕はペリカンの絵を描いた。
理由は、描きやすかったからだ。

そして何を考えたのか。
みんなの前で、コレがペリカンです。っと
分かるように、言葉を添えて、描いたのだった。  

図1.参照

もちろん、失笑を食らった。

けど

めげなかった。
大学辞めて
東京に来たんだ。

「やめるわけには行かない。」

その思いだった

年間を通しての課題が渡された。
今まで学んだ事を生かして
自分だけの照明を作りなさいと。

インテリアデザイナーを目指すからには、インテリアを自ら作り出すと言うものは当たり前であり。当然の課題だと思う。

今回の作品のテーマが、照明だった

各々が作業を進めていく中

僕は、作業出来なかった。
ただ単純に「意味がわからなかった」のである。

えっ自分の照明って何??

なんでみんな、作れるん??
作業できるの??

僕は焦った。

焦って、ひたすら考えた

頭を使って考えに考えて

出した答えが

これだ!!

年間の課題発表当日

上級生も集まり60名ほどの前で、1年間の集大成をプレゼンする。

どんな思いで、どんな工夫をして作ったのか

各自それぞれの作品が皆の前で披露されていく

運がいいのか悪いのか

(僕の苗字が山田なので、オオトリだった。ヤ行)

僕の番が来た。
スゴく緊張した。ダンスの大会とか、文化祭とかその辺のレベルじゃない。

もう生きるか死ぬかのような心境

胸が弾けそうな思いを抑えながら

吹っ切れたのだ

みんなの視線は、凄かった

ノリと勢いとペリカン事件で、変な奴だと思われていたからもある

しかも

両手には、50W程の電球しか持っていない

「こいつ何作ったん?」

「えっなにするん?」

同じクラスの生徒や上級生の心の声が聞こえる

「??????」

先生方の謎の視線を感じる


「今回の課題が、自分だけの照明を作りなさいとの事なので、僕自身が照明になりました!!」

みんな

「????????」

僕は、60名ほどの前で服を脱ぎ電球を体で抱え込み、自らが照明となったのである。

図2 参照



終わった…

心の中で、そう思った。

結果
意見は2つに別れた。

生徒たちからは
「やっぱりKJは、なんかやると思ってたよ!!こんな人初めてだ。」

(Dragon AshのKJモデルのメガネをかけてたからそう言われてた。今思うと恥ずかしい…。)

先生からは
「マスターベーションじゃいけないよ」
と言われた。

僕は当時
芸術は、マスターベーションじゃないのか?
とも思っていたけど。

今は少し違うのかなと思っている。

(他者になんの価値も与えていない)

そんなこんなで

僕は力尽きた。

もう無理だと思ったんだろう

落ちるとこまで落ちる

そこから学校には行かず。
落ちるところまで落ちていった。

とは言っても生活をしなければならない

学校に行かずバイトは続けていた

バイトの方達には、今も感謝をしている。
ありがとう。

生活費が無くなり
友人から仕送りをもらった

その生活費も足りず
消費者金融に手を出す

「こんな簡単にお金手に入るんだ」

と、キラキラと輝くお店に入ってしまう。

そうギャンブルにハマってしまう。

(今だから分かる。依存していたのだと。
脳みそやら人間の誘惑物質を頭のいい人達が意図的に操りホイホイとお客を呼んでいたんだと。)

「大学やめて東京に来てこんな生活…もう終わったな。」

ふらふらと深夜徘徊するようになっていた。

浅草を深夜徘徊してた時、金色のウンコみたいなのがビルの上に立っていた。

調べると。

有名なデザイナーが作ったらしい。

参考資料添付

僕は思った

「マスターベーションじゃん」

でも今は、こんな金のうんこに価値があるから浅草のビルの上に建ってるんだなと思う。

不思議な世の中だ。

と思ったりする。

アニメにハマり、ゲームにハマり、最低限の暮らしをしながら。

なんとかした

正確には、親がなんとかしてくれた

そう

僕は連れ戻された

当時のことを聞くと
かなり酷かったらしい

髪の毛ボサボサ
しかもストレスで髪の毛を抜いていたので、所々ハゲてる。

地元に戻り

意気消沈
生きる目的を失った
だから引き篭もった


友人がやってきた

とある日、友人がお金返してくれと家にやってきた。

東京時代にお金を借りた友人だ。


「ありがとう」

「けど今はお金ないから働いて返すね。」

友人

「わかったよ。」

両親に告げ口するわけでもなく待っててくれた。

その時僕に
友人にお金を返すと言う目的が生まれた

僕は、働いた

バイトをして稼いだお金を友人に返し

その友人と飲みに出掛ける日々を送った

その飲み屋で、紹介された仕事をするようになり

今までフリーターだった僕は

二十歳の時初めて会社員になる。
(有名企業工場内のリフト作業員下請けの下請け)

やりたい仕事をしていたわけではない。

どちらかというと、3Kと言われる仕事だ。

キツイ、キタナイ、キケン

消費者金融の借金もまだあったので(300万ほど)とにかく働きながら返しながら、友人と毎日飲みながら

ただただ生活をしていた。

何も考えてなかった
今だけ良ければいいと思っていたのだと思う。

両親には好きなことやらせてくれたし

真面目に働こうと思って続けた。

結果

1年半で辞めた。
30代〜50代周りの大人たちが楽しくなさそうに働いてるのを見て、嫌になった。

毎日一人で飲みに出掛けた

1人で飲みに行くと、友人を気にしなくて済むし、自分の時間を過ごせる。

バーカウンターにいるお客によく言われた

「若いのに1人で飲みにきてるの?珍しいね。」

(当時20歳)

1人で飲みに行くという行為自体に、なんの違和感を覚えなかった。

振り返ると小学時代から1人で遊びを見つけてきたからなのかと

その分周りよりも協調性に欠けていた部分はあるのだろうと思う。

毎日1人飲みをする生活をしていたためか、知り合いは多くなった。

行きつけの店長とも仲良くなり、いろんな場所に連れていってくれた。

毎日飲みに行くと、そっち系やあっち系の人とも絡むことがあった。

呼び出されて、ドライブをすることもあった。

その方の彼女は、スナックのママでこれもまたスゴく良くしてくれた。

いろんなこと教えてくれた。

その時知り合った、先輩からサーフィンを教えてもらったり、仕事紹介してくれたり。

気付いたら仲間が増えてた。

大学やめて、東京で挫折して、借金背負って。

側から見たら底辺な僕だけど

今思うと当時は、仲間がいたからなんとか前を向いて生きてけたのかなと思う。

本当にそう思う。

ありがとう

そんな僕には、まだ借金がある。
返さなきゃいけないなと思いながら

仕事を紹介されたのでその仕事をする。
(今現在も続けている。)

印象的なのは、社長との面接だった

呼び出されたのは、喫茶店コメダ

店内を見渡し、それらしいのを見つけると
窓際の席へ向かい軽く会釈をして着席

そしたら
社長が一言

「男同士が大切な話をするときは3秒で決まるんだ!!」

と言い

僕は働く事になった。

当時の月給は、15万である

社長は、特殊だったそして面白かった

僕もおかしかったので

「僕と社長はマブダチですね」

と言ったら

「お前は宇宙人だ!!」

と言われた

まぁ確かに変なやつだろう。
(お互いにね。)

仕事内容は短調で正直つまらなかった。
だから借金返して
3年以内にやめようと考えてた。

僕の職場は特殊で、最初から複業OKだった。

当時の僕は、お酒が好きだったことや人と話す事が大好きだった。

だから自然と自分のお店を持ちたいと思うようになり、その想いが通じたのか、BARで働くようにもなった。

昼間は、興味ない事で稼ぎ

夜は、好きな事で稼いでいた

ある夏の日の出来事

地元で花火が上がった。

そう

大きな花火が上がったのだ。

もともと大きな花火大会があるわけでもない地域だったので。

当時の僕は、なにそれ??
花火大会??花火??

という軽い感じ
で見にいった。

幼い頃からずっと育ってきた地元に大きな花火が上がるのを間近で見て

また電流が走った

「これだ!!!!」

僕は、当時の実行委員長の元へ行き

「僕にも花火大会協力させてください!!」

と突っ込んでいった。

そう
なにが出来るわけでもなく
なんのスキルも実績もないのに

気づけば、思いだけで動いていた。

僕は考えた
僕の出来ることはなんだろう??

そうか

「ヘッドスピンだ!!」

当時の動画を貼る。
YouTube。

実行委員に入り
仲間を集めて、ダンスチームを集め、地元でイベントを開いたりした

そこそこ成功したと思う
もう突っ走ることしか考えてなかった

0から1にすることの大変さを学んだと思う

100人以上集め、FLASH MOBを開催したり

これもみんな、たくさんの人が協力してくれたからだと思います。

ありがとう

そしてイベントが終わり

僕は燃え尽きた

燃え尽きたそのあと

26歳の時
BARで知り合った女性と付き合い。
(今の奥さん)

27歳の時結婚した
子供が出来た

もちろん嬉しかった

それと同時に不安が過った

まだ借金がある120万ほど

月々15万の給料では、生きていけないやろ…

両親に正直に話した

肩代わりしてくれた

結婚と同時に、バイトも継続

仕事も真面目に継続

家庭ができてから仕事に対する意識が激変した
(3年で辞めるとか言いながら気づけば6年目)

「辞めたい」という感情から「辞めたらいけない」という感情に変わる。

今まで散々自由に生きてきた僕には

生活の変化に心が追いつかなかった

仕事のストレスも半端なかった

僕はまたギャンブルに手を染めた

気づけばまた、借金が膨らんだ。

もちろん嫁にはバレた

離婚という文字が脳裏によぎった

それでもなんとか、お金は返すからって、必死でバイトしながら本業しながら返していった。

いろんなバイトした
個人経営の喫茶店
ゴルフバー
パチンコ屋
新聞配達

やれることはやってきた

だけど

やっぱり

心と体は正直者です。

またギャンブルしちゃうんだな

もちろんバレるんだな

隠し事下手くそすぎ

また離婚の文字が過ぎる

その時の契約で

僕はタバコをやめた

それと同時に、無理をしない事にした。

落ち着きを取り戻した先に

少し落ち着いて、今できる範囲でコツコツ返してゆこうと思い。

無理のない範囲で生活を継続している。

仕事に対する意識も変わり、部下もでき、給料もそこそこ上がって生活できるようになってきた。
(気づけば9年間も働いている)

バイトも無理のないようにお金はよりも身体の負担の少ないバイトを選択した。

落ち着きを取り戻し、家庭環境にも慣れ、子供と遊ぶことも楽しくなってきた

そんなある日の出来事である。

当時30歳

本屋に立ち寄り1冊のほんと出逢う。

そう

「新・魔法のコンパス」

著者 西野亮廣

である。

家に帰り

本を読んだ

そしたら

心に電流が走った。

「これだ!!!!!!」

それから僕は、本をむさぼるように読み始めた。

西野亮廣
前田裕二
堀江貴之
樺沢紫苑
メンタリストDAIGO
佐々木典士
塩田元規
Roland
草薙龍瞬
本田健
久我屋亮
藤原和博

2ヶ月で読んだ本の著者名
トータル40冊ほどは読んだ。

読んだと言っているが、
実際は聞いたのがほとんどだ

オーディブルの記事を載せる
こちら

1ヶ月20冊ほど
2日に一冊は読んでいるペース

いまもそのペースで読んでる

とにかく読んだ

読むだけだと頭に入らないから、心に響いたことをメモに残した

そして実践する

(実践して心が変わったこと記事)

メモだけでは足りず
ボイスメモにも残している。

図3参照

タバコをやめて毎日読書

(禁煙の仕方記事)

情報を仕入れては、ボイスメモに残し

(使っているアプリの記事)

メモを取る←(メモの魔力記事を載せる)

通勤時間に今日のやるべき事を確認

朝4時に起き毎日TODOリストを作成

(mind mapの記事を載せる)

早起きする為に、体調管理をする

(早起きの記事を載せる)

それと同時に今できるSNSを全てやり始めた

(YouTubeの始め方記事)

全ては、肉体労働のバイトを辞めお金と時間を自由に使う為に

(バイトの選び方記事)

全ては家族とより豊かに

現在(イマ)を生きるために

そのためにもっと勉強して

人の為に生きなければならない事を学んだ

このブログは、その一つ

あの時の衝撃から

発信するということは

すなわち自らの生き様を晒すことであると気づき

何よりも大事なことそれは、自分の人生をまず面白くすると言うこと。

自分の人生以上に面白いコンテンツなんてないんだと気づいたこと

僕の知識と経験を詰め込んで、試行錯誤を繰り返しより良く改善してゆこうと思ってます。

今は、なんの実績も経験もないのだけども

0から1にすることに対しての大変さは少しは経験しているので、乗り越えれると思います。

僕が出来るのならみんなできると思う

それぐらいの思いと背中を見せて
学んでゆけたらいいなと思います

こんな僕が最後に伝えたいこと

過去の僕みたいに

何をすればいいのか分からず

挫折を繰り返し、迷惑をかけて、借金を繰り返したり

落ち込んで漠然と将来に悩み

夢や希望がなくなり

仕事や人間関係の不安を持っている方に

伝えたいことがあります


「とりあえずやってみよう」


お前だから出来るだとかじゃなく


やってみないと何も変わりません

待ってても誰も迎えに来てくれません

別に誰も君のこと見てないよ?
誰も君のこと気にしてないよ?

なにをしたらいいかわからない??

わからないんではなくて

忘れてしまってるんです

僕は小さい時から社長になりたいと思ってました。

(理由はなんか偉そうだから)笑

どんなことでもいいんですよ

些細なことから思い出すきっかけになります

毎日の生活をすこし視点を変えてみてください

あと

本をたくさん読んでください!!

(僕は今年から読み始めすでに50冊 自慢したいわけじゃないよ。本を読んでいたら自然と好きになりました。)


いろんなことやってさ

間違ったら

またやり直せばいい

死ぬわけじゃない

中学、高校、帰宅部です

大学やめても僕は死にませんでした

東京行って挫折して

借金にまみれても死にませんでした

キツイ仕事を9年やり続けたけど僕は死んでません

逆に会社に感謝してます

今は亡き社長にも感謝しています

(宇宙人雇ってくれてありがとう。)

お金なくて結婚して子供できたけど

スゴく楽しく生きてます

失敗したら成功するまで続ければいい

間違ったら直せばいい

たくさん自分に傷を作って

修正して

また進めばいい

コロナの影響で仕事がなくなる心配をするくらいなら

コロナの影響で仕事がなくなってもいいように勉強すればいい

考える事をやめてしまった途端に

僕らは退化します。(工場での日々、記事)

僕はイマ学んでます。

何気ない日常から色んなこと学んでます

「今日という未来に小さなイチを足してゆく。」

そんな信念をもって僕は生きてゆきます。

(今の僕が言っても、全く説得力ないのかもしれませんけどね。笑)


追伸

ここまで読んでくれた方に感謝の気持ちを込めて

そして、育ててくれた両親と嫁と娘と娘へ

「ありがとう」

僕は今

「人の心を動かし行動の一歩を後押しする仕事を始めました」

お仕事依頼は、メッセージください♪